(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)

豊臣時代の京都           (INDEX:索引へ)


応仁の乱を経て京都は焼け野原状態になった。これを整備し直したのが豊臣秀吉(勿論一人だけの功績ではないですが)

「豊臣時代(前後を含む)の京都」を概観してみたい。

(索引)    聚楽第    京の七口    南北の通りの再分割
御土居の全貌(青線が御土居)平安京と御土居の関係(かなり小さくなったことがわかる)
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えらく細長い京都になったものだ(注)平安京の条坊図は各町を正方形で示したため、実際よりはかなり横長の図になっています。注意が必要です

長坂口近くの御土居跡(玄琢下、旧土居町)最北の御土居跡(堀川通竹殿上ル)紫野の御土居跡(御前通蘆山寺上ル)
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上の地図の「@地点」。京都の北西角を護っていた。御土居の形が最もよく残っている地点上の地図の「北方の尖った地点」。京都の北東角を護っていた。「説明板」も立っている上の地図の「西側、平野神社の北地点」。この辺は御土居跡が数多く残っている
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聚楽第の前身妙顕寺城跡(押小路通小川西入ル)聚楽第のイメージ(「NHK」のテレビ放映から)聚楽第跡(中立売通浄福寺東入ル)
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「本能寺の変」の後、天正11年(1583)秀吉が上洛した時の「政庁兼城」として作った秀吉らしく巨大なお城です。五重塔は(一瞬並存した4代目)「東寺」(らしい、貴重な瞬間)「正親小学校」の中立売通側に建っている。中立売通大宮角など他にも「聚楽第関連石碑」はある
施主建築焼失健在年数空白年数補足説明clickすれば大きな画像
空海(嵯峨天皇)元慶7年(883)天喜3年(1055)172−−−空海は完成を見ていない
源頼朝文治2年(1186)文永7年(1270)84131
足利尊氏永仁元年(1293)永禄6年(1563)27023
北の大政所文禄3年(1594)寛永12年(1635)4131木喰上人も施主の一人か
徳川家光寛永21年(1644)(376)年数は建築〜令和2年(2020)現在も「この3つ」は目立つ(航空写真)
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名前現在の地名役割とその先の経路(in 京都市)
@長坂口北区鷹峯旧土居町『山国街道』(氷室、京見峠へ抜ける道)の出入口
A鞍馬口出雲路橋の西詰『鞍馬街道(下鴨中通から円通寺前を北上して鞍馬寺へ抜ける道)』の出入口で「鞍馬口通」の東端
B大原口今出川通寺町角『若狭街道』(鯖街道)の出入口で「鯖街道口」(時代はもっと新しい)の道標がある
C粟田口神宮道通三条下る『東海道・東山道』三条大橋の西詰の出入口で「粟田小学校」前に石碑がある、昔から「粟田口」として有名
D伏見口五条大橋西詰あたり『伏見街道』(北端は現在の「本町通」)への出入口
E鳥羽口九条通千本東入ル『鳥羽街道(北端は現在の「千本通」)・西国街道(東端は現在の「九条通」)』の出入口、羅城門跡近く
F丹波口千本通七条上ル『山陰街道(東端は現在の「七条通」)』の出入口で、JR丹波口駅(五条下ル)に名前が残っている
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clickすれば大きな画像「東西の通り」(空色):昔のまま(丸、竹、夷、二、押)



「南北の通り」(青色):寺町(←東京極大路)、麩屋町(←富小路)、柳馬場(←万里小路)

 秀吉が拓いた(赤色):御幸町、富小路、堺町、間之町



(注)「富小路」は「平安時代と秀吉以降(現代も)」とで位置が異なる