(東京から引っ越してきた人の作った京都小事典)
千代の古道
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平安時代、京の都には
大路小路
の他に、都の外側にも「道」があった。現在でも痕跡が残ったものを
古道
と呼んでいる。
中でも「
歌に詠まれた千代の古道
」がよく知られている。
(大路小路をまとめた)
京都の街角写真
でもお世話になった「森谷尅久、千宗室 監修「京都の大路小路」(小学館)」
(以下「森谷本」と略)
をベースに追いかけてみた。
【森谷本からの一部引用】
京より上嵯峨広沢池周辺に通じる道
。
平安初期
の歌人
在原業平
の「
嵯峨天皇
を偲ぶ和歌
(さがの山 みゆき絶えにし 芹川の
千代のふる道 跡はありけり
)
」に譬喩として詠まれた。
【森谷本からの一部引用−その2】
江戸時代の案内書のなかには、広沢池に出る道として紹介されているから、当時の人々の間では、嵯峨の地のいずこかの道が千代の古道と意識されていたことも確かである。
明治二十二年の地図では、広沢池に出る道は数本記入されている。今の地図にあてると
京福電鉄嵐山線有栖川駅方面から北上する道
常盤方面から西北方向に広沢池に向かう道
京福電鉄北野線鳴滝駅の北側から音戸山西麓沿いに広沢池の東方に出る道
今はBルートと考えられている
らしく、「千代の古道」と刻まれた数本の石碑が道沿いに建っている。(中略)
ただこの
石標が示す千代の古道は、やや現代的にルート変更されている
ようで、新丸太町通がその入口と意識されている。
「広沢池」=目的地
森谷本による「出発点」の候補=@、A、B
▲(2つ)=本ページに掲載した「千代の古道石碑」
【私説】「出発点」=「広隆寺」/「太子道」
「中継路」=「山越道」
【私説】
目的地=「広沢池」は正しいと思う。
出発点は「京の都」であるべきで、森谷本の「@、A、B」はおかしいと思う。
「都」の西側について、この頃は「
広隆寺
」までの「
太子道
」は確立していたはずなので、
出発点=広隆寺
と考えるのが良いと思う。
その後は、「石碑の置かれている
山越道
」
(上図2つの三角形の間)
を辿ったのではないか。
「広隆寺−山越道」間は、よくわからないですが
一旦「帷子ノ辻」
(帷子ノ辻は平安時代からあった)
まで進んで、そこから「北上」したか。
または、
(現在の)
常盤駅方面へ向かって「北上
(後に)
北西上」したのではないか。
どちらかと言うと
Aルートに近い
ということになる。
目的地「広沢池」
「山越道」にある「千代の古道の石碑」
広沢池へは
観月
が目的だったのではないか
「山越道」の南端「
丸太町通
」からの分岐点
石碑の左を上がって
(写真奥へ)
行くと「山越道」
「山越道」の北端「山越の十字路」
嵐山の方へ向かって
(写真左へ)
行くと「広沢池」
その他の意見(気が付いたもの)
「千代の古道」の石碑を追いかけてみると
石碑は、
梅宮大社
近く−高田橋(有栖川)−
斎宮神社
(三条通)−兒神社(広沢池西岸)
にも
置かれている。
これは「千代の古道」=「梅宮から
大覚寺
」と主張しているようです。
昔の道を「現在に再現する」のは
難しい
。
100後小松天皇(1382-1412)は「みゆきせし
千代の古道 あととぢて
ただいたづらに 茂る夏草」と詠んでいるから、
室町時代
には
千代の古道はあやふやに
なっていたらしい。