（東京から引っ越してきた人の作った京都小事典：参考）

十六夜の旅物語 　　　　　　　　　　(INDEX：索引へ)

• 旧暦１０月１６日（新暦１１月２１日）
  • （娘（紀内侍）に跡継（為相）の後見を頼んだので大丈夫だとは思うが）こんなに心が弱くてはいけないと、心を鬼にして出発した。粟田口（この時代の粟田口は現在の京阪「九条山」バス停近く）で牛車は返して（見送りの長男（源承律師（定覚））とも別れた）、ほどなく逢坂の関も越えた。

    	定めなき 命は知らぬ 旅なれど		（定めない人の命だから、生きて帰れるかわからないが）
    	又逢坂と 頼めてぞ行く		（また逢坂の関に “逢える”（戻れる）よう祈る）

  • 野路（草津市）まで来たが、（我らの）先にも後にも人は見えず、日は暮れてきて何とも物悲しいと思っていると、（癪なことに）時雨まで降りかかってきた。

    	うち時雨 故郷思ふ 袖濡れて		（故郷を想う涙と時雨で、袖も濡れた）
    	行く先遠き 野路の篠原		（ここは野路の篠原、先はまだ遠そう）

  • 今夜は鏡（竜王町、京都から十里）まで行こうと考えていたけれど、すっかり日も暮れてしまったので辿り着かなかった。（仕方なく）守山で泊まった。ここでも時雨はまだ降りやまない。

    	いとゞ我 袖濡ぬらせとや 宿りけむ		（いよいよ我が袖も涙と時雨で濡れてきたので泊まることに）
    	間なく 時雨の 洩る山（守山）にしも		（間断なく 守山にも “洩れるように” 降る時雨よ）

  • （時雨で見えないけれど、考えてみれば）今日は十六日の夜でした（これが日記名になる）。（歩き疲れて）大変苦しかったので、すぐ横になった。

• 旧暦１０月１７日
  • まだ月の光がかすかに残る曙に、守山を早立ちした。（橋の無い）野洲川を（馬に乗って）渡る頃は霧がひどく深くなって、先を行く人の（姿は見えず）馬の足音だけが聞こえるばかりだ。

    	旅人は 皆もろともに 朝発ちて		（旅人は皆んな朝早発ちで）
    	駒うち渡す 野洲の川霧		（野洲の川霧の中、駒音だけを頼りに進む）

  • 十七日の夜は小野（彦根市）の宿に泊まる。（今夜は）月が出て、山の峰を背景に、立ち並んでいる松の木の間から（山と空の境目がはっきり）見えて、とても面白い。

• 旧暦１０月１８日
  • 小野の宿も、夜深い霧の中を（早朝）手探りで出発した。醒が井には（美味しい）水があり、（今は晩秋だけれど）夏ならば（みんな）通り過ぎることは無いだろうと思って見ていると、やはり徒歩の人は（みんな）立ち寄って汲んでいる。

    	結ぶ手に 濁る心を 濯ぎなば		（（紀貫之の歌「結ぶ手の いづくに濁る・・・」に倣って）清水を掬って濯げば）
    	うき世の夢や 醒が井の水		（醒が井の水なら、手だけでなく、煩わしいこの世の悩みまで綺麗になるだろう）

  • 十八日、美濃の国、関の藤川（岐阜県南部、不破の関の近くの「藤古川」）（定家が不遇で仮寓したとも言われる所なのだから）を渡る折、（この旅は跡継に定家の所領を相続する訴訟の旅なのだと思い起こして）まずこんな歌が心に浮かんだ。

    	我が子ども 君に仕えん ためならで		（息子が宮仕えすることを祈るだけならば）
    	渡らましやは 関の藤川		（こんな旅には出なかった、藤川を渡ることも無かった）

  • 不破の関屋の板庇は、（昔の歌に出てくるのと）今も変わりがない。（昔の歌＝人住まぬ 不破の関屋の 板庇 荒れにし後は ただ秋の風（藤原良経））

    	ひま多き 不破の関屋は このほどの		（板隙間の多い不破の関屋は、この秋には）
    	時雨も月も いかに漏るらん		（時雨も月も洩れて出てくるのだろう）

  • 関のあたりから、ひどくなった雨が、時雨という以上に降り続いて、道も大変悪くなり、仕方なく（予定外の）笠縫（大垣市）の駅（うまや）に泊まることにした。

    	旅人は 蓑うち払ひ 夕暮の		（旅人は蓑に溜まった雫を払って）
    	雨に宿かる 笠縫の里		（夕暮れの雨の中、“蓑笠を外して” 笠縫に宿を求めた）

• 旧暦１０月１９日
  • 十九日、（笠縫を出て）旅を続ける。夜もすがら（一晩中）降った雨で、平野（大垣市神戸町）とか言う辺りは、道がひどく悪くて、人が歩くような状況ではなく、（まるで）水田の中を歩いているようだ。明けてくるにつれて雨は降らなくなった。お昼頃、道の途中に目に立つ社（やしろ）があった。人に尋ねると「結ぶの神（安八町の結神社）です」と言う。

    	守れたゞ 契り結ぶの 神ならば		（どうぞお守りください、契り結びの神様）
    	解けぬ恨みに 我迷はさで		（恨みを解いて私を迷わせないでください　　“結ぶ”と“解く”を対句にして）

  • 洲俣川（墨俣町、現在の長良川）には、舟を並べて、正木（マサキノカズラという蔓性の常緑低木）を用いた綱のようなもので繋ぎ合わせた浮橋があった。大変危なかったが（なんとか）渡れた。この川の、堤の方はすごく深くて、反対側は浅くなっている。（この光景から２句を詠む。）

    	片淵の 深き心は ありながら		（片側だけ深い堤のように、深い恋心を抱いていると）
    	人目つゝみの さぞせかるらむ		（人目から “包み（堤）” 隠し続けるのは、苦しいものです）
    	仮りの世の 行き來と見るも 儚しや		（この世も、浮橋を渡るようで、儚いものです）
    	身の浮舟を 浮橋にして		（浮橋とは、頼りない “我が身＝浮舟” を繋ぎ繋ぎしたようなものなのですから）

  • 又一の宮と言う社（やしろ、真清田神社）を過ぎて（１句。そして尾張の国下戸（稲沢市下津町）まで行った。）

    	一の宮 名さへ懐かし 二つ無く		（一の宮の名前のとおり、二番目の法律）
    	三つ無き法を 守るなるべし		（三番目の法律でもなく、一番目の法律（御成敗式目は「悔返状（為家が為相に与えた）」を正当化している）を守ってくれれば、我が訴訟は勝てる）

• 旧暦１０月２０日
  • 二十日、尾張の国、下戸の駅（うまや）を出発する。どのみち道筋になるので熱田の宮へ参詣して、（旅行用の）硯を取り出して、歌５句を書きつけて奉納した。

    	祈るぞよ 我が思ふ事 鳴海潟		（祈ります、我が願いごとが “成る（鳴海）” ように）
    	潟引く潮も 神のまにまに		（神の思し召しのまま “ひいきに（引く潮）” にしてください）
    	鳴海潟 和歌の浦風 隔てずば		（鳴海潟（熱田神宮）に 和歌の浦（玉津島神社）と同じ風が吹くならば）
    	同じ心に 神もうくらむ		（我が歌の神（玉津島神社）と同じく、熱田神宮も我が願いを叶えてくれるだろう）
    	満つ潮の さしてぞ来つる 鳴海潟		（満潮がさしてくるように、我も鳴海潟を指して来ました）
    	神や哀れと 見るめたづねて		（神も哀れと “見て（みるめ＝海松布＝潟にある海藻の一種）” くれるでしょう）
    	雨風も 神の心に 任すらむ		（雨風も神の御心のままになるのでしょう）
    	わが行く先の さはりあらすな		（我が旅の行く末にも支障のないようにお願いしたい）
    	契りあれや 昔も夢に 見しめ縄		（契りがあったのでしょうね、昔御社の “しめ縄” の夢を “見しめ（見ました）”）
    	心に掛けて めぐり逢ひぬる		（多年念願してきましたが漸く参拝できました）

  • （鳴海潟は）干潮時だったので、問題なく、干潟を歩けました。折しも浜千鳥が多く、先立って飛んで行ってくれたので、道案内のように思われて

    	濱千鳥 啼きてぞ 誘う世の中に		（浜千鳥が啼いて我を世の中（歌道の師範の家系）に誘ってくれる）
    	跡とめじとは 思はざりしを		（歌道の師範として “浜千鳥が足跡を残すように” 世の中に認めてもらえる、とは思っていなかったのですが）

  • （伊勢物語によれば）隅田川の辺りにだけにいるものだと聞いていたのですが、都鳥と言う嘴と脚との赤い鳥が、この浦にもいました。

    	言問はむ 嘴と脚とは 飽かざりし		（伊勢物語のように尋ねてみよう、嘴と脚が “赤い（飽きない）” 鳥は）
    	我が越し方の 都鳥かと		（我が住んでいた都の、その都鳥ですか）（伊勢物語の歌＝名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと）

  • 二村山（豊明市沓掛町）を越えて行く。山も野も大層遠くて、日も暮れてしまった。

    	はるばると 二村山を 行き過ぎて		（はるばると二村山を越えてきて）
    	なほ末たどる 野べの夕やみ		（それでもまだまだ野辺の夕闇の中を迷いながら歩いています）

  • （業平伝説で有名な）八橋（知立市八橋町）に泊まろうと供の者どもが言うので結局八橋に泊まることにした（この旅のお供は手輿を持つ２人）。暗くなってもう橋も見えないほどだった。

    	さゝがにの 蜘蛛手危ふき 八橋を		（「ささがに」は蜘蛛の枕詞　蜘蛛の足のように八方に分かれていて危なっかしい八橋を）
    	夕暮れかけて 渡りかねつる		（夕暮れの中、渡るのが難しかった）

• 旧暦１０月２１日
  • 二十一日、八橋を出発した。今日はよく晴れている。山の麓を遠く巡る原野を分けて行く。昼頃になって、紅葉の大変多い山に向かって歩く。風にも負けず枝から落ちない紅葉、ところどころは茶色い朽葉になっていて、その中に緑の常盤木も立ち交じって、青地の錦を見る心地がする。ここはどこか人に問うと「宮路の山（宝飯郡）」ということです。

    	時雨けり 染むる千入の はては又		（今年はよく時雨が降った。布を千回も染めたように）
    	紅葉の錦 色かへるまで		（その果てには、紅葉の錦の色があせてきた）

  • この山までは、昔来て見た記憶がある。（若い頃浜松荘を往還したときと）季節も同じだったし（天気も同じく徐々に時雨てきて）

    	待ちけりな 昔も越えし 宮路山		（待っていてくれたのですね、昔越えたことのある宮路山よ）
    	同じ時雨の めぐりあふ世を		（前回と同じく時雨と “巡り合いました”、これも運命でしょうか）

  • （この先は初めての所ばかりです。）山の裾野に竹が生えている所に、萱屋（萱葺きの粗末な家）がたゞ一つ見える。どうしてこんな不便な所に住むのでしょう。

    	主や誰 山の裾野に 宿しめて		（山の裾野に宿を構えているのは誰でしょう）
    	あたり寂しき 竹の一叢		（周りは寂しい竹が一叢（ひとむら）あるだけです）

  • 日は入り果てて、物の形や色の区別もわからなくなる時刻になったので、渡津（豊川市小坂井町）と言う所に泊まった。

• 旧暦１０月２２日
  • 二十二日の暁（今日も朝早く）、まだ夜も深く有明の影が残る頃に出発した。（まだ真っ暗なので）いつよりも、物悲しい気がする。

    	住みわびて 月の都は 出でしかど		（侘しく暮らしていた月の綺麗な都を出てきたが）
    	憂き身離れぬ 有明の影		（有明の月の影は、訴訟で憂鬱な我から離れず、ずっとついてくる）

  • とそんな思いが頭から離れない。お供（同道している阿闍梨（慶融、最初の夫との子））は「（我らが笠を被って歩いているのと同じように）有明の月も笠（月暈（つぎがさ）、光と大気中水分の関係で月の周囲に生じる光の輪）を被っていますよ」と言うのを聞いて（月を見る。）

    	旅人の 同じ道にや 出でつらん		（旅人と同じ道を歩こうと、月出するのか）
    	笠うち着たる 有明の月		（我らと同じ笠を被った有明の月よ）

  • 高師の山（豊橋市と湖西市の間）もようやく越えた。海の見える景色は大変面白い。浦風が荒れて、松の響きももの凄く、浪もひどく荒れている。

    	我がためや 風も高しの 浜ならむ		（我のために、風も音 “高く（高師）” 吹く高師の浜なのだろう）
    	袖のみなとの 浪はやすまで		（袖に、湊の波のような涙がかかるのを、風が囃し立てているようだ）

  • 真っ白な洲崎に、黒い鳥の群が飛んでいる。鵜と言う鳥でしょう。

    	白浜に 墨の色なる 島つ鳥		（白浜に墨の色のように黒い群れをなしている鳥たちよ）
    	筆も及はゞ 繪に描きてまし		（画の才覚があるならば、絵に描いてみたいものだ）

  • 浜名の橋（浜名湖の浜名川に架かる橋）から見渡たせば、鴎が大変多く飛び交っていて、中には、水の中へ飛び入ったり、岩の上に止まっていたりする鳥がいる。

    	鴎ゐる 洲崎の岩も 他ならず		（鴎のいる洲崎の岩も、他人事とは思えない）
    	波の数こそ 袖に見なれて		（岩を越える波の数は、我が袖に見慣れた涙の数と同じくらい多いのだから）

  • 今夜は引馬の宿（浜名市北部曳馬町）に泊まる。この辺のだいたいの地名は浜松と言う。父（平度繁、養父との説も）が在任中親戚付き合いをした人々が住んでいる所です。（ここに久しく）住んだ父の面影もいろいろと思い出され、命あって再び（４０年振りに）巡り合える人もいるとは、つくづく運命を感じる。

    	濱松の 変わらぬ影を 尋ね来て		（浜松の昔と変わらない様子を探し求め来て）
    	見し人なみに 昔をぞ問ふ		（もう父は “亡くなった（波に）” 昔のことを問いかけて偲ぶ）

  • その当時知り合った人の子や孫などを、呼び出して語り合った。

• 旧暦１０月２３日
  • 二十三日、天中（天竜川）の渡で舟に乗る折、（西行物語に書かれていた）西行の渡船の難儀が思い出されて心細い思いがした。木を組み合わせた舟（筏舟）がたった一つあるだけで、多くの人を往来させているので、舟は休む暇もなく行き来している。

    	水の泡の うき世を渡る ほどを見よ		（川の中に浮き沈みする水の泡は、憂き世を渡る我らと同じようだ）
    	早瀬の瀬々に 棹をも休めず		（早瀬を一つ一つ乗り切るのに、棹を休めることはない）

  • （渡船に手間取ったので、なかなか旅程を稼げず）今夜は遠江の見附の国府（磐田市見附町）に泊まることになった。里は荒れていて恐ろしい感じがする。近くには入江（今の浦）があった。

    	誰か来て 見附の里と 聞くからに		（誰かがやって来てやっと “見つける（見附）” 程度の小さな里と聞いて）
    	いとゞ旅寝ぞ 空恐ろしき		（こんな里で泊まるのは恐ろしい気がする）

• 旧暦１０月２４日
  • 二十四日の昼頃、（あの西行も越えたという）小夜の中山（掛川市と金谷町を結ぶ山道）越えになった（西行の歌＝年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山）。（中山に続く）「ことのまゝ」と言う名の社（やしろ、事任八幡宮）では、紅葉がとても綺麗だった。山陰（やまかげ）にあるので、嵐も吹かないのだろう。山深く入っていくと、あちこちに峰が続いて、他の山とは違って、心細くしみじみとした感慨がある。（今日も山越えしただけで）その麓の里菊川（金谷町）と言う所に泊まる。

    	越えくらす 麓の里の 夕闇に		（小夜の中山を越えて泊まることになった麓の里の夕闇の中を）
    	松風おくる 小夜の中山		（小夜の中山から松風が吹き下ろしてくる）

  • 明け方（目が覚めてしまって）起きて外を見れば月が出ていた。

    	雲かゝる 小夜の中山 越えぬとは		（もう既に、雲のかかる小夜の中山を無事越えましたよ）
    	都に告げよ 有明の月		（都に知らせてください、有明の月よ）

  • （月を見ていたら）川の音の凄いのにも気が付いた。

    	渡らむと 思ひやかけし 東路に		（東下りをすれば必ずや渡ることになるだろうと）
    	ありとばかりは 菊河の水		（しばしば “聞いていた（菊）” 川よ）

• 旧暦１０月２５日
  • 二十五日、菊川を出発して、今日は大井川を渡る。水量が少なくて、聞いていたのとは違って、難なく渡れた。（それでも）川幅は何里もあって、非常に広く、川向こうは遥かに見える。水量が多かったら、どんなことだろうと、思いやられる。

    	思ひ出づる 都のことは 大井川		（思い出す都のことが “多い（大井）” 川よ）
    	いく瀬の石の 数も及ばじ		（河原の石も多いが、思い出すことの方がもっと多い）

  • （伊勢物語でよく知られている）宇津の山（岡部町、「蔦の細道」）を越えるとき、（偶然）阿闍梨（同道した子息の僧）の知り合いの山伏に出会った。（まさに伊勢物語の＝「駿河なる 宇津の山べの うつつにも ）夢にも人に（あはぬなりけり）」をわざと真似たようなことになって、本当に珍らしい思いをした。面白くもあり、あはれにも、優しくも思う。山伏は「急ぐ旅です」と言うので、長い手紙を書く時間もなく、格別に大切な方（紀内侍）にだけ簡単な音信を書いて手紙を託した。

    	我が心 うつゝともなし 宇津の山		（我が心は「旅は現実ではない（“うつつ”）」と思いながらも、実際には宇津（“うつ”）の山を旅している）
    	夢路も 遠き都 恋ふとて		（夢の中ではいつも遠い都を恋しく思っています）
    	蔦紅葉 時雨ぬひまも 宇津の山		（宇津の山の蔦も紅葉も、時雨で赤く見えます）
    	涙に袖の 色ぞこ焦がるゝ		（一方、我が袖の赤色は、涙で濃くなっていきます）

  • 今夜は手越（安部川の西）に泊まることにしたが、なんとかという名の僧正の上洛と重なって、大変な人出になっている。宿も取りにくい様子だったが、さすがにまだ泊まれる宿も残っていた。

• 旧暦１０月２６日
  • 二十六日、（まず）藁科川（安倍川）を（手輿で）渡り、興津の浜に出た。（定家の「こととへよ 思いおきつの 浜千鳥）なくなくいでし あとの月影」の歌が、まず思い出される。昼、立ち寄った所に、粗末な黄楊の小枕（式子内親王の歌＝わが恋は 知る人もなし せく床の 涙もらすな 黄楊の小枕）があった。（長旅で）ちょっと苦しかったので、それを使って横になったら、硯もあったので、枕元の障子に、臥したまま歌を書いた。

    	なほざりに 見る夢ばかり 仮枕		（少しばかり枕を借りて昼寝します、夢を見るでしょうか）
    	結びおきつと 人に語るな		（誰かと契りを結んで “おきました（興津）” だなど、夢にも人に言っては（“告げ（黄楊）”）てはいけません）

  • 夕暮れ近く清見が関（関所の址）を通り過ぎた。岩を越す浪が、白い着物を岩に着せかけているように見えて面白い。

    	清見潟 年経る岩に 言問はん		（清見潟にある古そうな岩に聞いてみよう）
    	波のぬれぎぬ 幾重ね着つ		（恋の濡れ衣ならぬ、波の濡れ衣を何回着たことか）

  • 程なく日が暮れて、その辺りの海に近い里（清見潟）に泊まった。漁師の仕事であろうか、隣から流れてくる煙のちょっと嫌な臭いがして、（白楽天の）「夜の宿 生臭し」の詩が思い出される。夜通し、風が吹き荒れて、波音が枕元に響いてくる。

    	習はずよ よそに聞きゝこし 清見潟		（経験したことがありません、都でもその名を聞いたことのある清見潟）
    	荒磯波の かゝる寝覚めは		（その清見潟の荒磯 “波の（かかる＝このような）” もの凄い音に寝覚めてしまいます）

  • 富士山を見ると噴煙は出ていない。昔、父の朝臣と一緒に「（これやさは）いかに鳴海の 浦なれば（思ふ方には 遠ざかるらむ）」などと詠みながら遠江の国まで来た時には、富士山の噴煙は、朝夕、確かに見えていたので「いつの頃から出なくなったの」と聞いても、きちんと答えられる人は近くにはいない。

    	誰が方に 靡き果ててか 富士の嶺の		（富士山は誰の方に煙を棚引かせるようになったのでしょう）
    	煙の末の 見えずなるらむ		（噴煙はちっとも我の方からは見えなくなりました）

  • 古今集の仮名序の言葉（高き山も・・・、長柄の橋も・・の言葉が書かれている）が思い出されて

    	いつの世の 麓の塵か 富士の嶺の		（いつの時代からか、麓の塵が積もりに積もって）
    	雪さへ高き山と なしけむ		（雪さえ降り積もる高い山になったのか）
    	朽ち果てし 長柄の橋を 作らばや		（腐って壊れた（淀川に架かる）長柄の橋のように古い物は、新しく作り替えたいものだ）
    	富士の煙も たゝずなりなば		（富士山の噴煙も出なくなったのなら）

  • 今宵は波の上と言わんばかりの海に近い小屋（清見潟の小屋と思われるが、記述が曖昧）に泊まった。荒波の音が左右から聞こえて、寝ることができない。

• 旧暦１０月２７日
  • 二十七日、すっかり夜が明けてから（今日は少しゆっくりの出発で）富士川を渡る。朝の川は大変寒い。数えてみれば（京を出てから通算で）十五個目の川を渡ることになる。

    	さえわびぬ 雪より下ろす 富士河の		（ひどく寒くて辛い、雪の山頂から吹き下ろしてくる風が渡る富士川よ）
    	川風凍る 冬の衣手		（川を渡る風に冬の衣装を着ていても凍り付く）

  • （それでも）今日は、日中は日光がうららかで、田子の浦に着いた。海人どもが漁をするのを見ても

    	心から 下り立つ田子の 海人衣		（自ら手を下して作業するのは、田子の浦の海人も、我も同じ）
    	干さぬ恨みも 人にかこつな		（海人の袖の乾く間もないという恨み（“（田子の）浦”み）も、和歌で忙しいという恨みも、人のせいにしてはいけない）

  • と言うべきか。（今夜は）伊豆の国府（三島市）に泊まる。まだ夕日が落ち切らないので、三島の明神（三島大社）へ詣って歌を詠み（百首）奉る。

    	あはれとや 三島の神の 宮柱		（健気だと言ってくれるでしょうか、三島の神様も）
    	たゝこゝにしも 巡り来にけり		（ただこの宮に詣でるためだけにやって来たのです）
    	自ずから 伝えし跡も あるものを		（我らが伝えてきたことは沢山ある）
    	神は知るらむ 敷島の道		（神も見ていてくれたでしょうか、我らがやってきた正しい歌道の道を）
    	訪ね来て 我が越えかゝる　箱根路に		（参拝の後、我らは箱根の難路を越えようとしています）
    	山の甲斐ある しるべをぞとふ		（山越えの苦難の甲斐があるように道案内をお願いします）

• 旧暦１０月２８日
  • 二十八日、伊豆の国府を出発して箱根路にかゝる。（今日は長丁場なので）まだ夜は深いまま

    	玉くしげ 箱根の山を 急げども		（「玉くしげ」は箱根の枕詞　箱根の山に急いで向かいます）
    	なほ明け難がき 横雲の空		（歩けどもまだまだ夜は（“箱は”）明けない、ようやく空に横雲が見えてきた）

  • （かつて夫（為家）が辿った）足柄山越えは距離が長いので、箱根路（江戸時代に整備された「箱根八里」とは異なる）を選んだ。（それでも）

    	ゆかしさよ そなたの雲を そばだてて		（好奇心を誘います、山際に雲をそびえたつようにしている）
    	よそになしつる 足柄の山		（今回は通らないことにした歌枕で有名な足柄山よ）

  • 非常に険しき山を下る。人の足も、止まらないほどの急坂です。（ここは）湯坂（湯本に下る道）と言うところです。辛うじて下り切ると、麓に早河（早川）と言う川がある。名前の通り早く流れている。木が多く流れているので「あれはどうして」と尋ねると「海人の藻塩を焼く木を海岸へ出そうと流しているのです」と答えがあった。

    	東路の 湯坂を越えて 見渡せば		（東国へ向かう湯坂を越えて見渡すと）
    	鹽木流るゝ早川の水		（藻塩木が流れる早川が見えます）

  • 湯坂から海岸へ出て、日が暮れかかっているのに、今夜泊まる所まではまだまだ遠い。伊豆の大島まで見渡たせる海辺に来たので「ここはどこですか」と尋ねても、知っている人はいない。（近くには）海人の家だけがある。

    	海人の住む その里の名も 白波の		（海人の住む里の名を尋ねても誰も “知らない（白）” 波が）
    	寄する渚に 宿やからまし		（寄せる渚に宿を借りたいものだ）

  • （強行軍の３７kmを旅して漸く）鞠子河（酒匂川）を、真っ暗になってから探りながら渡る。今宵は酒勾（小田原市）に泊まった。「明日は鎌倉へ入れるはずだ」ということです。

• 旧暦１０月２９日（新暦１２月４日）
  • 二十九日、（昨日の疲れはあるけれど、今日も朝早く）酒勾を出て、海岸沿いの道を、はるばると進む。明けようとする海の上に、大変細い月（月齢２８日の月、新月に近い）が出ている（朝５時くらいか）。

    	浦路行く 心細さを 波間より		（海岸沿いの道を進む（“月の細さと同じくらいの”）その心細さを、波の間から）
    	出でて知らする 有明の月		（知らせようと出ている有明の月よ）

  • 渚に寄せては返る波の上に霧が立ちのぼって、多数見えていた釣舟も今は見えなくなった。

    	あま小舟 漕ぎ行く方を 見せじとや		（海人の小舟が漕いで行く方向を見せまいとするのか）
    	波に立ち沿う 浦の朝霧		（“立っている” 波の上に “立ち上る” 浦の朝霧よ）

  • （鎌倉に着いてみると）今や都がすっかり遠く隔たってしまったわけだが、（無事に着いたことは）いまだに夢を見ているようです。

    	立ち別れ 世も憂き波は かけもせじ		（都に住む愛する人々と別れて、こんなにも辛い “旅（波）” はしなくても済んだのに）
    	昔の人の 同じ世ならば		（もし夫が生きていて同じ世で生活できていれば）