双林寺山
(INDEX)
独断評価
発見難易度
登頂体力度
頂上眺望度
山行愉悦度
総合評価
5点満点
★★
★
★
★
2.4
山頂の特定(
地図
)
後述のごとく「特定すべき山を持たない山」である。新たな事実が見つかるまで
現在の本堂の位置を双林寺山頂
としておく。
登頂記録
この一帯の山頂探索を行った結果、上のような判定を下したのが、H15-5-4(初登頂)。
双林寺山
23番長楽寺山・25番東大谷(東漸寺)山・26番高台寺山を特定してしまうと、この一帯には「山」は残らない。
平安初期に現在の東大谷(東漸寺)山・高台寺山を背景にしたこの一帯が中国の沙羅双樹林寺の風景を思わせることから双林寺(雙林寺)として創建されたが、その後寺の衰微に伴って背景の山とは無関係になり寺領と名前だけが残ったと想像される。
したがって
現在は特定すべき山を持たない山
と言える。
「鷲尾町」にある。
双林寺
左大史尾張定鑑が建立、伝教大師最澄が開基といわれる。金玉山と号す。
後に比叡山の別院となり「鷲霊山沙羅双樹林寺」と称された。
円山安養寺・霊山正法寺同様、国阿上人が復興し時宗に変わったが、明治になって再度天台宗に復帰した。
安元3年(1177)
(6月)
の鹿ヶ谷事件で鬼界ヶ島に流された平康頼は帰洛後、双林寺あたりの山荘に隠棲したことから、双林寺境内に供養塔が残っている。
明治初期の円山公園造成と円山野外音楽堂建設で、現在は円山野外音楽堂のすぐ裏(東)に本堂、飛び地に西行庵を残すのみ。
江戸時代の
双林寺
(都名所図会、安永9年(1780)、国際日本文化研究センター/データベースから)
蕪村
もこの図の頃の双林寺での句会に参加したはず。この頃も「
本堂
」と「康頼の塔」
(図左中央)
しかなかった
のか。
道の向い
(図右下)
には「
西行庵
」と「西行桜」が描かれている
近くの仏閣神社
西行庵
双林寺の飛び地。
西行
が結んだ庵。母屋と茶席、西行堂を合わせて西行庵と呼んでいる。
『
願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ
』の
歌を詠んだ
ところとも言われている。この西行庵にも「桜の木」はあったらしい。
茶室ではお茶が戴ける。境内見学だけなら無料。
現在の
双林寺
本堂
西行庵の近く
芭蕉堂
の前に
双林寺道
の道標が残っている
飛び地の真葛ヶ原にある
西行庵
昭和40年代の
西行庵
(京都味覚地図から)
「
とろろ飯
」を提供していた
(写真)
雍州府志での記述
雙林寺山
東漸寺山の南に在る。
東山国有林風致計画での記述
雙林寺山
東漸寺山の南にある。