大日山
(INDEX)
独断評価
発見難易度
登頂体力度
頂上眺望度
山行愉悦度
総合評価
5点満点
★★★
★★
★
★★
2.4
山頂の特定(
地図
)
高さの点で、大日山としては「行基の座禅石」のあるあたり(
旧・観勝寺山
)を山頂としたい。
大日山墓地(明治6年(1873)開設)北奥の柵を越えたところに、
行基の座禅石を想像させる大きな岩がありその奥の林の中にこんもりしたピーク(標高150m)がある。これが大日山頂
と思われる。
山頂には標識らしきものはない。林の間から市街がわずか垣間見れる。登っても山頂らしさは感じない。
登頂記録
初登頂は、H15- 2- 2。山頂探索を目的に登頂。
このときは神明山から回り込んで下りてきて登頂した。登頂後柵を越えて大日山墓地を訪れた。
山頂から少し北へ進むと南禅寺へ下りるしっかりした山道がついている。南禅寺最勝院奥の鐘楼脇へ出る。
大日山
後述のとおり
古の「東岩倉山と観勝寺山」(近接している)を「まとめて大日山とする」のが適当
と思われる。
市街に近いほうのピークが東岩倉山
で「磐座があったと伝えられ、見晴らしが良い山(現在は眺望はない)」。
その東奥のピークが観勝寺山
で「行基の座禅石が残る山」と考えるのがよさそう。
その意味では明確にするために
観勝寺山と呼んだ方がわかりやすい
。
一言で言えば
鹿ヶ谷通りに(西へ)飛び出したような小山
と言うことができる。
旧・観勝寺山(=大日山)
のカシミールでの測定は「N35度00分19秒1・E135度47分50秒7、標高150m」。
「平安通志」では「最も左に在るを如意嶽、大日山、獨秀峰とし」と並んで代表的な峰に挙げられている。
(注)鴨川西岸より望見すれば「如意ヶ岳、南禅寺山、神明山」と列挙するのが正しい。
旧・「東岩蔵(倉)山」
とも呼ばれる由来となった
「磐座(いわくら)」はまだ見つかっていない
。
桓武天皇が平安京鎮護を目的に都の東西南北4ヶ所に磐座を定め、磐座の下に「一切経」を埋納したことに始まる。四磐座は次のとおり。このことから観勝寺山との別名もあり紛らわしい。
北
石座神社
左京区岩倉西河原町、山住神社、社殿(現在はない)建立は長徳2年(996)
西
金蔵寺
西京区大原野
東
観勝寺
応仁の乱で焼失
南
明王院不動寺
下京区松原通麩屋町、北向き不動
「豊臣秀吉が山頂に斥候のための寨を設けた」との記述があるが(雍州府志での記述項参照)、十分にそのくらいの広さはあり、完全に周囲からは独立したこんもりした岡(ピーク)になっている。
低いけれど、街からはこちらの方が山に見える。
カシミールでの測定によれば「N35度00分15秒5・E135度47分47秒6、標高140m」、GPSでの測定は「N35度00分15秒3・E135度47分47秒8」であり、旧・観勝寺山(=大日山)とは
約145m離れている
に過ぎない(
東山三十六峰の近接関係
を参照)。
名前のとおり「粟田口大日山町」にある。
雍州府志での記述
東岩倉山
下粟田の上に在る。古え経を納めて京城の鎮護となす。山頭、東西南北を下し視るが故に、豊臣秀吉は山頂に斥候のための寨を設けた。
この寨が「
東岩倉山城
」か。京都市遺跡地図台帳には「御陵安祥寺町 南禅寺の東側、大日山の尾根筋に築かれた山城」と記載されている。
さらにこの寨から「独秀峰下の炊烟を見た」との記述もあり、東岩倉山と独秀峰とは別の山であると考えた方がよい。
観勝寺山
岩倉山の東に在る。古え行基が観勝寺をこの山に建てる。今は寺は絶え、行基の座禅石が残る。
近世(江戸時代に)観勝寺は祇園の南、真性院の中に移された。
東山国有林風致計画での記述
東岩藏山
独秀峰の南東、今日の大日山のこと。古は山頂に大日堂があったと云う。
(注)この比定は迂闊。十分な調査をしなかったのではないか。
観勝寺山
東岩倉山の東にあり、古は観勝寺があったと云う。
比定
東岩蔵山/観勝寺山
「新撰京都名所圖會」(竹村俊則著)によれば「大日山は古くは東岩倉山と称し、この地に昔観勝寺があった」とある。即ち
大日山=東岩倉山=観勝寺山
。
この2つの山は両方とも「大日山」
と比定するのがよい
。
大日山頂
山頂下にある座禅石を想像させる大きな岩
大日山墓地北奥に見える山頂
山頂からの眺め(市街はまったく見えない)
鹿ヶ谷通(永観堂前)から見る大日山(右)
蹴上・ねじりマンボウから見る大日山
旧・東岩倉山頂(そこそこ広い台地)
大日山墓地から見る旧・東岩倉山